e楽器屋.comが取材した楽器店・インタビュー特集(全36回・2015年3月〜2019年12月)のアーカイブです。掲載情報は取材当時のものです。

楽器屋探索ディープレポート Vol.32

明大前 ハナムラ楽器

ハナムラ楽器について
明大前すずらん通りを進むこと1分、マニア心をくすぐるタイムスリップしたかのような手造り楽器の店。ユニークな発想とハイレベルな製作技術を併せもつ楽器一筋58年の花村芳範氏が、単板一枚板、完全ラッカー塗り、染め上げ着色(草木染め等)をポリシーとしたギター、ウクレレ製作と販売、修理メンテナンスを行う。一枚のイラストやアイデアから世界に一台しかないオリジナル楽器を製作。指先の向こうにインスピレーション豊かな世界が広がる。
ハナムラ楽器店舗情報
ハナムラ楽器 公式サイト
世田谷区松原1-38-9
TEL:03-3322-6537
営業時間:11:00~19:00・日曜定休日
ハナムラ楽器

楽器店の中の人に話を聞いてみた〜 ハナムラ楽器 編

このコーナーは、楽器店でミュージシャンをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューしてお話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。

ハナムラ楽器オーナー 花村芳範氏

本日は、個性的なギターが並ぶ「ハナムラ楽器」オーナーの花村芳範さんにお話をお伺いします。オープンはいつになりますか?

オープンは1961年。24歳の夏のことだね。現在82歳だから、今年で58年目。

1961年! このインタビュー企画でも長い歴史をもつショップのひとつです。創業にいたる経緯をおしえていただけますか?

けっこう長くなるよ(笑)。

はい、ぜひおねがいします。

長野県の出身なんだけど、あの時代でちゃんと大学まで出してもらって東京に来た。いまで言うバイオテクノロジーのような学問をやっていたね。親父が自民党の支部長をやっていた縁で、ある代議士さんがバイオテクノロジーの企業に就職試験を白紙で出しても受かるよう、就職のお膳立てをしてくれたのね。

お父さまのツテで就職先の世話もしてもらった、滑り出しは順調ですね。

いや、それが、野球をやっていたら就職できなくなっちゃって(苦笑)。

え、野球で?

当時、中野にあった「信濃寮」という、信州出身学生が100人ぐらい集う寮にいたのだけど、ある日、都内各校の学生寮の連中が、中野の哲学堂に集まって野球大会をやったんですわ。でも、自分は体が小さくて、野球もうまくなかった。だから、審判をやってくれと頼まれて、朝から晩まで審判をやっていた。日が暮れて寮に帰ったら「代議士の先生から36回も電話がありました」と。

まさか、その日が…?

就職試験の日だった。一週間、間違えちゃったんだ(笑)。電話をかけなおしたら「てめえ、何やってんだ!」とこっぴどく叱られて。

野球の審判をやっていて…。笑いごとではないですが、笑えます。

そのおかげで、卒業後に行く所がなくなっちゃってね。それで新聞の求人欄に、山野楽器の銀座本店で「幹部候補生6人募集」というのを見つけたのね。で、早速、採用試験を受けた。あのころの山野楽器はキングレコードの総卸部もやっていたような世界的な楽器店だった。

はい、山野楽器はいまでも日本を代表する楽器店です。入社試験の結果は?

合格しちゃった。137人も応募があったらしいのにね(笑)。それが1958年のこと。

凄腕の職人から、楽器製作や修理の技術を教わった

山野楽器では、どのような業務にたずさわったのですか?

いわゆる「楽器部」だね。楽器の商売全般に関わる部署。でも、入社3日目で辞めようと決心していた。

狭き門をくぐって決めた就職、なぜ、たった3日で辞める決意を?

たとえ自分が優秀な男でも、山野さん(の親族)でないと社長にはなれない世界だと思ったから。

なるほど…。

でも、入社から3年はがんばったよ。そうはいっても、山野楽器には日本一、世界一の修理屋さんが来ていたから。ギターもクラリネットもトランペットも凄腕の職人が出入りしていたんですわ。

そこで仕事を覚えた?

そう。そういう人たちと仲良くなって、楽器製作や修理の技術を教わった。果てはアコーディオンまで直せるようになった。楽器の売り方とかは参考にならなかったけどね(笑)。

ところで、花村さんは楽器演奏もされていたのですか?

親父が楽器好きで、バイオリン、月琴、尺八、三味線、ギター、なんでもやっていた。おかげで、小学校卒業の時は、大きな120ベースのアコーディオンで「蛍の光」を弾いていた。兄貴が持っていたハーモニカも吹いていたし、親父の尺八、三味線とかも弾けたね。

物心ついたころから楽器に囲まれていたのですね。

だから、大学時代、奨学金を使ってギターを買っちゃったんだけど、そういう家だったから、むしろ「やってみろ!」と言ってくれたよ。

ギターは本来、単板一枚板で無垢の板で作るもの

それでは創業したお店についてお聞きします。山野楽器をあとにして、どのようなお店を作ろうと考えたのでしょうか。

ずばり、1950年代ギターのような本物のギターをつくること。50年代ギターの音を知っている人ならわかると思うけど、その素晴らしさを貫きたいと思っていた。それはいまも同じ。

1950年代のギターはそこまで良いものですか?

鳴りが全然ちがうね!60年代に入ってからのギターは、木材やパーツを組み合わせたり、塗装を重ねたりしたものが多くなってしまった。それじゃあ、鳴らないよね。ガチガチにミュートしちゃっているようなものだもん。

ギターの製造方法が変わってきてしまったのですね。

そう、ギターは本来、単板一枚板で無垢の板で作るものなのね。塗装もセルロースラッカー(硝化綿ラッカー)で、木から採ったラッカーを塗るだけ。そうでないと、ギター本来の鳴りを失ってしまう。それが、現代は全部ポリウレタン塗りで、プラスチックのようになっている。鳴るはずがないよね。

それにしても、店内に並んでいる楽器たちがユニークすぎます。

これも創業から、世の中にない楽器を開発したいという気持ちでやっているからだね。なんていったって「楽器業界のノーベル賞」だもん(笑)。これがマスコミにも受ける(笑)。

すごいインパクトです。花村さんのどのようなルーツからくるものか気になるところです。

ただ、寝ている間にひらめく(笑)。こういった一風変わった発想をするようになったのは、親父の影響だと感謝している。たとえば、この(店内の)扇風機、正面から見ると右回りでしょ?

はい、右回転です。

でも、親父はこう言う。「ばかやろう!後ろにから見れば左回りだろ」って(笑)。10円玉を持ってきて「これはどういう形だ?」と問われる。「マル」と答える。すると「ばかやろう!自動販売機の硬貨投入口は長方形だろ」と怒られる。子どものころから、そういうモノゴトの見方を教わってきたからね。

モノをちがう視点でとらえてみよう、ということですね。その発想を楽器として再現する技術もすごいです。

そこは自慢できるところかな。ピアノやバイオリンは何百年という時間を経て楽器としての完成形にたどり着いたけど、自分なら一発で作っちゃうからね(笑)。

何十年やってきたけど支店ひとつ出来なかった(苦笑)

その技術的な部分について、少し教えていただけませんか?

音の鳴りに対して絶対的なガイドラインを持つこと。たとえば「6弦は鐘の音」。鐘って「ゴーン」だけじゃなくて、「ゴワーン、ワーンワーン…」って響くでしょ? この波長、揺らぎが大切なのね。だから「1弦はお鈴の音」。「チーン」じゃなくて、「チヒヒヒヒ…」という響き。木も弦もそうやって鳴るもの。それさえイメージ出来れば、どう作っても良い音の楽器ができる。

なるほど。とてもイメージしやすいです。

うん、でも、製作者としての立場で、この鳴り、響きがわかる人は少数で1,000人に1人か、10,000人に1人くらいなんじゃないかな。だから、うちも何十年やってきたけど支店ひとつ出来なかった(苦笑)。

僕はいま、世紀の天才とお話しているのかもしれない(笑)。

アハハハ。まあ、なかには「こんな楽器をつくりたい」と、絵だけ描いてきて、注文してくれる人もいる。でも、量産はしない。数百台というオファーもくるけど、そういうのは一切お断り。このまま、死ぬまで今のスタイルを貫くよ。

自分のスタイルで作り続ける姿勢、尊敬します。では最後に、花村さんからのメッセージをおねがいします。

デジタルの世界で生きて行かざるを得ない時代、みなさん心身ともに疲れているでしょう? だから、家に帰ってから弾く楽器くらいは、せめてアナログの音にしてみたらどうでしょう。うちが作ったギターの音色は、小川のせせらぎであり、ウグイスの声であり、風のそよぎです。そういう音で自分を癒してちょうだいな(笑)。

ぜひ、花村さんの手から生まれた、世界でたった一つの楽器にふれていただきたいですね。本日は貴重なお話をありがとうございました。

インタビュー&ライター 浅井陽(取材日 2019年7月)

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明大前駅(世田谷区)
世田谷区松原にある京王線と井の頭線の交差駅。1913年開業時は「火薬庫前駅」という物々しい駅名で、甲州街道沿いに徳川幕府の煙硝蔵があったことに由来。1917年に村名をとって「松原駅」、1935年に明治大学キャンパス移転にちなんで「明大前駅」に改称。道路と鉄道の連続立体交差事業により2022年度をめどに高架化。
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